生活保護利用者に対して、よく「自立していない」という声を聞きますが、それはまちがいです。
たとえば、わたしは精神疾患をわずらって家を追われホームレスになりましたが、路上の生活では、あらゆることに選択肢がありません。ゴミとして捨てられた残飯を食べざるを得ず、風呂にも入れず、着たきりスズメ、寝る場所すら選べない状態です。
7年後に入ったホームレス施設では、食事は一種類のメニューが「与えられ」、風呂は時間と回数制限の中で「供給され」、衣料は一部が「支給され」、睡眠は時限付きで「許され」ます。住所設定で選挙に行く「選択肢」が与えられ、身分証明によって図書館で本を借りるなどの「選択肢」も与えられます。
そうして生活保護では自分で食事を「選択し」、入浴を「選択し」、着るものを「選び」、睡眠時間を「選択」する生活に入ります。ようやく毎日を主体的に生活できるようになるのです。
これらを福祉では「自立が進んだ」と呼びます。「自立していない」のではなく「自立が進んだ」のです。これはどういう意味でしょうか?
現代福祉では、自立を「自己選択と自己決定による人格的自立」と定義します。人に頼らない旧来の「自助」ではなく、必要なサービス、必要な人の手を借りて、主体的に生活するのです。
できないことは人に手伝ってもらい、動ける範囲、活動範囲を広げ、自己決定できる機会を増やしてゆく。人の指図ではなく、自分の決定で行動する。出来合いの物を与えられるのではなく、お金をどう使うかを自分が決める。それが現代の「自立」です。
生活保護制度の利用は、それ自体がすでに自立なのですね。したがって「生活保護利用者は自立していない」がまちがいであることがわかります。同時に「自立を促す」こともまちがいだとわかるでしょう。自立に必要なくなれば制度を利用しなくなりますが、それがすなわち「自立した」ということではありません。自立生活に欠かせなければ、制度は利用されなければなりません。
「生活保護は恥」「恩恵」「人権が制限されるのもしかたがない」という声があります。およそ現代福祉とはかけ離れた、時代おくれの思想です。
なぜなら、生活保護の利用者はすでに自立しており、他の人たちに劣るところがまったくないからです。この制度は「人々が正々堂々、胸を張って生きられる」ためにあります。利用者がバッシングされたり見下されたり揶揄されるいわれはありません。
「人々が正々堂々、胸を張って生きられる」制度。その実現に、わたしはわずかながらでも、ちからを尽くしたいと思います。
《野神健次郎 プロフィール: 生活保護利用当事者。精神疾患治療のかたわら、エッセイや動画配信などさまざまな方法をとおして、福祉の理念を伝える活動をおこなっています。》
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