福祉とは関係のない、ふつうの職場で働くのは久方ぶりのことだった。この表現が奇妙なことはわかっている。しかしまた「世間」というものを改めて見渡すために、あえて使ってゆく。
さて、ふつうの職場で働く人たちは、福祉、とりわけ生活困窮者福祉――ということばがあるのかどうか知らないが――などとは無縁だった。ぼくらが日々、血まなこになっている生活保護問題なんて、
「そういえばそんなことが報道されていたかも?」
ニュースの片隅でちらり、見聞きした程度だ。
そもそも、生活保護がなんなのか知らない。どういう制度なのか理解していない。福祉事務所がどういう機関なのかも存じ上げない。名前すら覚えていない。
「なんとか地域福祉センターだっけ?」
いや、それは地域包括支援センターですよ、よく知っていますね、でも福祉事務所は別です、なんてぇ説明をしなきゃぁならねぇときもある。
ぼくは、自身が福祉にかかっていることを隠していない。当初、事情を知っているのは責任者のみだったが、ぼくは自分の立場をベラベラと吹聴した。福祉に対する誤解、受給者への無理解があれば、やいコラすっとこどっこいおとといきやがれ、と理解を促すつもりだった。なにがしかの批判が向けられることは承知していたし、衝突すら覚悟していたのだ。
それが、まったくない。
生活保護制度にしろ、
「ニュースじゃ悪く報道されているよね」
「でもまぁ(受給者には)いろいろな事情があるのだろうから(生活保護の受給は)しかたがないんじゃない?」
せいぜいそんな意見しか出てこない。これにはアッと驚いた。
突然に湧き出して吹き荒れた暴風雨のごとく、ぼくらを徹底的に打ちのめそうとした、あの「生活保護バッシング」とはなんだったのか?
「生活保護は恥」とまで云い切った国会議員、「(受給者に)フルスペックの人権はいらない」と宣言した内閣官房副長官、尻馬に乗りネガティブな情報だけを選別して垂れ流したマスコミ、彼らに扇動されてバッシングに躍起になった市民たち……
彼らも、その現象すらも、もはや世間の記憶には残っていない。極めて特殊で限定的なただの通過点、眼にも留まらぬ速さで飛び去ってゆく話題のひとつに過ぎなかったのか。
「生活保護ってどういう仕組み?」
「お金をもらう代わりにボランティアとかさせられるんじゃないの?」
「働かなくてもお金をもらえるのなら、健次郎くんが働くのはなぜ?」
「俺も、もらえないかなぁ!」
それは受給要件を満たせば……と答えかけたとたん、ケラケラと笑い出す。むろん冗談なのだ。
ぼくは、現在の職に就くまで多くの求人で不採用になった。ある事業所からは、
「生活保護の受給者は採用しない」
とまで云われ、その向かい風の強さに閉口したものだ。
けれど、いざ就職してみると、大多数の人はそんなことは一切気にしていない。受給者の背景にある「複雑な事情」をおもんばかることはあっても、妬みや被害者意識などを持つ人はまったくいない。ぼくは胸をなでおろすことしきりであった。
だが、それは同時に、彼らが福祉に関心がないということでもある。福祉にかかっている人間の悩みや苦しみにも興味がなかったということだ。なぜだろうか? 身近にそういう人間がいなかったからだろう。翌日になれば忘れてしまうニュースの中にしか存在しなかったからだ。しかし今、彼らの隣には、ぼくがいる。
生活保護バッシングをする人たちの中には、よく、
「わたしの周りにいる受給者は……」
という表現を用いて、受給者全部をあしざまに罵る人がいるが、それはぼくらの周辺でも起こり得る。むろん、前者とは逆の意味で。
当事者ができることのひとつに、自分の行動をとおして福祉への誤解を解いていただく、自分の行動をとおしたその向こう側に、他の受給者の姿を見ていただく、ということがある気がしている。ふだんは隠している生活保護受給者の看板を、ぼくらはあえてぶら下げることもできる。それによって、隣人の考えがよい方向に変わるかも知れない。
「わたしの周りにいる受給者は、人間的にはふつうの人たちだよなぁ。生活保護のイメージって、ニュースで扱われているほど悪くないよね」
世間にそう云わせるだけのことが、ぼくらにはできるはずだ。
「 Watch me!(わたしを見ろ!) ぼくらはあなた方と変わらない!」
胸を張ってそう云い放てる日を目指したいと思うのである。
☆野神健次郎 (のがみ けんじろう): 貧困エッセイスト。家庭内暴力による約8年間のホームレス生活中に、日本初の現役ホームレスブログ「ミッドナイト・ホームレス・ブルー」を開設。路上生活を終えた現在もエッセイや動画などで、当事者目線の福祉情報を発信しつづけている。
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