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「生活弱者の切り捨てに懸念」稲葉剛(NPOもやい)

2013年10月2日付け 朝日新聞朝刊 オピニオン面「耕論」欄

生活弱者の切り捨てに懸念

自立生活サポートセンター・もやい理事長
稲葉剛(いなば・つよし)

  消費増税は社会保障を充実させるため。そう言いつつ、安倍政権は8月から、生活保護を利用できるかどうか判断する基準額を引き下げました。私たちのアンケートでは、生活保護世帯の約6割が食費や電気代を削ったと答え、高齢者のなかには夏のエアコンを使わず健康状態を悪化させた人もいます。物価上昇目標を設定し消費税も引き上げるのに、生活保護費や年金をカットするというのは、矛盾としか言いようがありません。

  私と貧困問題の出会いは1994年。東京都による新宿駅の路上生活者の強制立ち退きに衝撃を受け、支援活動に参加しました。

  以来、問題は確実に悪化してきました。たとえば90年代に野宿していた人のほとんどは、高度成長期に出稼ぎにきて日雇いで働き、バブル崩壊で仕事と住まいを失った50~60代でした。それが2000年代になると、若年層が目立つようになる。非正規雇用で収入がないので居場所を転々とする、ワーキングプアであるがゆえにハウジングプアな若者たちです。08年秋にリーマン・ショックが起き、暮れに日比谷公園に「派遣村」ができてようやく、貧困問題が可視化されるようになりました。

  民主党政権の評価は難しいですが、貧困問題のふたを開けたのは確かです。所得が少なく生活が苦しい人たちの割合を示す「相対的貧困率」が初めて公表され、ナショナルミニマム(国が保障する生活最低水準)の議論も始まった。しかし、鳩山政権の退陣により貧困対策の機運はしぼみ、野田政権にいたっては消費増税に拘泥するあまり、税と社会保障の一体改革で理念なき妥協をしてしまった。

  政権に返り咲いた安倍政権のもとで、いったん社会の問題として考えようとした貧困が、再び個人の問題に戻されようとしています。そもそも自民党の社会保障についての基本的な考えは、家族の支え合いがあり、企業による福祉があって、どうにもならない場合に国が助けるというもの。生活に困ったら、まず家族や地域で面倒をみて、となる。生活保護で扶養義務を強めようとする見直しは、その延長線上にあります。

  家族と企業におんぶに抱っこの社会保障は、高度成長期には有効だったかもしれません。しかし長引く不況で企業の余裕は消え、働き方も家族のあり方も変わった今では現実的でない。非正規雇用の割合が増え、将来的に低年金・無年金の高齢者が増えるのは必至なのに、最低保障年金を導入せずにどう乗り切るつもりでしょうか。

  安倍政権は社会の変化を踏まえ、「公助」のあり方を考えるべきです。消費増税で社会保障を充実するというかけ声だけでは、貧困層と政治の距離が遠のくばかりで、説得力がありません。

  アベノミクスには、デフレから抜け出せば増税による消費の冷え込みも乗り越え、すべての困難が解決するという意識が透けてみえます。それはありえません。「富める者が富めば、貧しい者にも富が浸透する」というトリクルダウンの理論が虚構なのは、小泉政権の景気拡張期に貧困が若年層まで広がり、?年代半ばから増えだした餓死者が?年、最悪の?人を記録した事実などでも明らかです。貧困から命を救うという観点からすれば、景気の動向よりも社会保障が機能しているかどうかのほうが、ずっと意味が大きいのです。

  反貧困の運動にとって、現在の政治状況は非常に厳しいと言わざるをえない。でも、だからこそ、やるべきは原点回帰。生活に困窮する当事者の声に耳を傾け、社会保障を切り捨てる動きに対し、現場から抵抗の声を上げるしかないと考えています。

  安倍首相は東京電力福島第一原発の汚染水を巡り、「状況はコントロールされている」と発言しました。現実とかけ離れているのに、あまり問題視されていない。国を信じてはいないが上手にだまされるならいい、という空気が日本に蔓延しているように思えてなりません。それは現実逃避です。消費税であれ、社会保障や労働政策であれ、政府はこう言うが、事実は違うと突きつける。一人ひとりが「私は困っている」という声が上げないと、社会はよくなりません。

 

※この記事のリンク用短縮URLです。⇒ http://nationalminimum.xrea.jp/it131002

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